闇に浮びし緋の斜陽

                                   序章
 深い、闇空の下、乾いた色に染まり始めている平原に、一人の少年が走っていた。まだ、
小学六年生ぐらいか、幼さが残るその顔は恐怖に染まっていた。
 大人びた格好をしている少年だが、その服は何者かの返り血で真っ赤にべっとりと濡れ
ていた。表情からして何かから逃げているようだが、ふいにその足は縺れ、薄野原に倒れ
こんだ。
「…………」
 怯えを含んだ眼差しを後ろに向け、必死に立とうとするが、がさがさと追ってくる音は
近づいてくる。迫り来る時を覚悟して目をぎゅっと瞑ったが何も襲ってこない事に気付い
て、少年はゆっくりと目を開いた。
「大丈夫よ」
 目の前に居たのは、胡桃色の長い髪を持つ紅い着物の同じくらいの少女だった。少女は
少年の手を引いて立たせると半歩前を走り出し、薄野原の奥深くへと走っていく。黄金色
の薄の背丈は、少年、少女のそれより高く逃げるにはもってこいの場所だ。
「君は?」
 少女の腰には、四本の髪と同色の狐の尻尾が生えている。声変わりしきってない高く、
かすれた声で分かりきったことを少年が聞くと、その少女は優しくふっと微笑んだ。
「今は何もいえないわ。とりあえずさっさととんずらしちゃいましょ」
 走りながら言うと少年が逃げてきた方向である深緑の森の方向に迂回して走っていく。
少女は、それ以上何も言わずに少年の手を引いている。その手の温もりが少年の壊れかけ
た自我を保たせていた。
 少年は少女を不思議に思った。少女は少年が朱に染まっている理由を聞かない。よほど
落ち着いているか端から見ていたかなのだが、少年は追われる前に見た光景を思い出し体
を強張らせた。
「どうしたの?」
 突然動かなくなった少年に少女は覗き込んだ。少女のその後ろから刃が迫っているのが
見え、少年は先ほど見てしまった光景が目の前を駆け巡るのを感じた。

迫り来る白銀の刃。自分を突き飛ばして庇う父。散り行く鮮血。記憶と視界を塗りつぶす
紅。何故かその色は、幼い時に消えてしまった母の鮮やかな唇の紅を思い出させた。少年
は、自分が何をしているのか分からずに、ただただ少女を突き飛ばしていた。
 少年は、少女を横殴りの平手で突き飛ばすと、刃を自身の体で受けた。腹から背に抜け
る熱い感触から激痛に変わり、そして自分の体から流れ出ていく紅い血潮を見て意識を失
った。
「お兄様」
 少女は打たれた頬に手を当てながらサッと振り返り機敏な動作で少年の前に立った。一
匹の白銀の狐が少女の目の前に立っていた。いつの間にか少年の腹にあった刃は霧散した。
「そいつを貸せ」
 白銀の毛並みを持つ九つの尾を持った狐は残虐に引き攣った笑みをその面に浮かべて少
女に言った。少女はその尾を見て悲しげに目を伏せた。その尾は九つある。
 伝説の悪狐、九尾の狐だ。
「堕ちてしまったのですか。お兄様」
 そして視線を狐に向けたときには激しい敵意を向けていた。狐は口が裂けそうなほど程
ニヤリと笑うと飛び掛る前傾姿勢をとった。
「ここでお別れです。お兄様」
 そう言うと少女は両手で柏手を打ち鳴らし、狐が飛ばされるのを見て、落ちるその場所
に異界へと通じる門を開いた。白銀の毛並みを持つその狐は笑いながらその門の中に落ち
ていった。
 そして少女は一息つくと倒れている少年に近寄った。
「息はまだあるのね」
 心底安心したように呟くとそっと深い傷口に手を当てて目を閉じた。
「天津神に吾は祈る。この者の不浄を払除し賜えと畏み畏みて申す」
 その途端少年の傷が癒えていった。そして少女はポツリと呟いた。
「あたしは、貴方を死なせたくない。…………そう。貴方は未来に出会うべき人だから」
 そう言うと少年を抱えながら少女は門を開いた。ここは迷処。現世と常世の中間にある
時間に縛られない空間。そして、常世にも落ちられる空間。その迷処に妖が住んでいる。
 妖とは、人の想いの具現。人の感情一つで善い者にも悪い者にもなる。少女は天狐の血
を受け継ぐ人だ。父が人で母が天狐。そして先ほどの狐は、元はと言えば天狐であったの
だが、同族、その他諸々を殺め過ぎ、堕ちて悪狐である九尾に成り果ててしまったのであ
る。
「だから、また、出会う日まで」
 少女は少年を門に落とすとすぐに門を閉じ天狐の集落に戻った。集落に向かう途中、人
の亡き骸を土に埋めてやった。恐らく、あの少年の父親だろう。どこと無く雰囲気が似通
っていた。そして集落に帰ると騒然としていた。
「長老?」
「あやつは」
「どこかの異界に落としました。今は焼き狐か何かになってますよ」
 人の合い子でありながら強い力を持つこの少女は集落の狐たちから可愛がられていた。
外見だけで見ると三十代ぐらいに見える、若い姿の長老は、ううむと唸りながらも、この
世界から九尾に堕ちた天狐はいなくなったことを知り、ひとつため息をついて頷いた。
「人をまた殺めたそうです。…………とても狐のやることではないけど、子供の目の前で
親を……」
 その言葉に長老は目を見開いた。そして何も言わずに目を伏せ溜め息を吐いた。
「その子供は?」
「傷つけられたようでしたが癒しました。そして人の世に落としました」
 事務的に答える少女に長老はそうかと頷いた。まだ、天狐の里は騒然としている。
 長く胡桃色の髪が嵐の予感を告げる風に靡いていた。

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